学校に行けずに困っている子ども達へ。
子ども達を支える保護者、教育関係者へ。
はじめに 不登校児童の現状
なるさわばしこは、中学にほとんど行っていません。小学校高学年の頃から始まったいじめが、進学してからも続いたためです。人間関係の問題に加えて、学業成績が振るわなかったこともあり、気付けば学校へ行けなくなってしまっていました。
文部科学省の調査によると、私が中学生であった平成15年頃から、不登校の児童は(小中合わせて)13万人以上(不登校比率1.18%、小学生0.36%中学生2.73%)いたようです。
文部科学省HP 平成15年度 学校基本調査速報の結果についてより引用
15年が経ちましたが、こうした状況はむしろ増加しています。文部科学省の平成29年の調査によると、不登校の児童は(小中合わせて)14万人以上(不登校率比率1.5%、小学生0.5%中学生3.2%)となりました。
文部科学省HP 平成29年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について(その1)より引用
今は、小学生の200人に1人が、中学生の約30人に1人が不登校になる時代です。
学ぶ児童としても、育てる保護者としても、教える教育関係者としても、決して他人事ではありません。
そこで、私自身の経験を踏まえて、
学校に行かなくて良かったこと
学校に行かなくて後悔していること
をまとめました。
不登校経験者のいちロールモデルとして、参考にしていただければと思います。
学校に行かなくて良かったこと
自分のやりたいことができた
私はもともと、興味の分野が比較的広い子どもでした。学校に行かなかった余暇の時間を使って、料理に手芸に歌にDIYに絵に漫画に小説に……掃いて捨てるほどの趣味をもつことができました。
まとまった時間で漫画や小説を投稿したり、絵をYahooオークションで売ったりと、表現活動をする時間を多くとることができました。表現をすることは今でも、私の精神的な支えになっています。
また、小学生の頃から本に親しむ習慣があったため、不登校になってからは図書館に通い、週に10冊、様々なテーマの本を読むようにしていました。学業的な面ではかなり歪(いびつ)ではありますが、大量の読書によって身に付いた教養が、後々役に立ちました。
人と違う思考法が身に付いた
知人に言われたことですが、私には「思考の枷」のようなものが無いそうです。今までコミュニティに合わせる経験をしてこなかったからか、自分の時間を拘束されなかったからか?自由な発想力があるとよく言われます。
人と違う考え方ができるというのは、何かを表現する上ではプラスだと思います。大人になってから、いくつかイベントを運営しましたが、私の発想力が役に立つ場面が結構ありました。
嫌いな人と過ごさず済んだ
いじめの加害者や、嫌がる私を無理矢理教室に押し込もうとした担任の先生のことが、私は大嫌いでした。小学生の頃から続くいじめを今更謝罪されたからといって、許す道理はありません。
不登校になったことによって、私はコミュニティから外れ、そうした人たちに心を煩わせることなく3年間を過ごすことができました。人を恨み続けるよりは精神衛生上良かったと思います。
学校に行かなくて後悔していること
将来の選択肢が狭まった
不登校になった時点の私は、13歳の小娘でしたので、社会のことはよく分かっていませんでした。「将来困るぞ!」と周りの大人達が口を揃えて言いましたが、具体的にどう困るか、誰もきちんと教えてくれなかったのです。
簡単に言うと、「信用ポイントが下がるぞ」ということだったのかもしれません。
信用ポイントは私の造語ですが、いわゆる職歴や学歴を根拠にする、その人の社会での信用度のこと。そして大人達は、「なるべく高い学歴となる大学へ」「なるべく高いお給料がもらえる会社へ」行けるように、子ども達を促しています。
(勿論そうではない価値観もありますし、むしろ私はそうではない派ですが)周りの大人達はどうやらこうした論理のもと、不登校になった私を心配していたようなのです。
当時は無知な小娘でしたので耳を貸しませんでしたが、進学する段階になって大人達の言うことがいくらか理解できるようになりました。
中学にほとんど行かなかった私は、内申点も通知表もつけられない状態でした。特に学業的サポートも受けていなかったので、成績は凄惨たるもの。高校進学は公立はおろか私立も厳しい状態。他に選択肢がなかったため、夜間定時制の高校に通うことになったのです。
夜間定時制は、私と同じく訳ありの子どもや大人、戦争疎開で学校に行けなかったお年寄りが通う場所。授業の内容もほとんど中学の復習で、大学受験に向けた対策は一切行なっていませんでした。
40人いた同級生のほとんどは途中で辞め、卒業できたのはたったの7人。
たまたま国語の成績だけが良かった私は、どうにか私立の教育学部に進学できましたが、それも奨学金をたんまり借りてようやく叶えたことです。
しかし就職する段階になって、世の中には大学名や学業成績だけで人を振るい落とす企業も少なくないことを知りました。大学や大学院に行くにあたって、学ぶために必要なお金が先述した「信用ポイント」によって大きく増減することも知りました。国立の教育機関は、私立のそれより遥かに安いのです。
国立の高校や大学を目指せる学力があれば、就職せずに進学する選択肢を選べます。
有名な大学を出ていれば、就職する仕事の種類を選べます。
どちらがいいということはありませんが、私は「不登校になったことで、選択肢が狭まった」と感じています。
自己肯定感がとても下がった
私は不登校生活をそこそこ楽しんではいましたが、家族をはじめ周囲の風当たりは辛いものでした。人と違うことをするというのは、とても勇気のいることです。いじめが原因とはいえ、「行くべき場所から逃げた」「周りの皆は頑張ってるのに頑張れなかった」自己イメージは、今でも私を苦しめることがあります。
同年代の人間関係がゼロになった
コミュニティに所属する、関わることをしてこなかったので、学生時代の友人というものが私にはいません。今も同年代の人(特に同性)とは上手くコミュニケーションを取ることができません。
家族関係が悪化した
私の家族は不登校には全く理解のないタイプでした。いじめだろうとなんだろうと、原因に関わらず、「不登校は甘え」「どんなに辛くても学校には行くべき」「学校に行かないお前は怠け者だ」という考えだったため、私は随分責められました。
耐えかねた私の数回の家出を経て、無理矢理学校に行かされることは無くなりましたが、衝突を繰り返したことで、私は両親に対して拭えない不信感をもってしまったのです。今もこうした関係は改善できていません。
おわりに 学校に行くにしても行かないにしても「自分の頭」で考えてほしい
以上が、私自身の経験を踏まえた、
学校に行かなくて良かったこと
学校に行かなくて後悔していること
のまとめです。
いたずらに不登校を煽るわけでも、大多数がそうしているからといって公教育を強制するわけでもありません。
どちらにもリスクはあります。
私は不登校になったことで、楽しめることや、やりたい事を見つけられたと思っています。反面、信用ポイントが少ないせいで惨めな思いをすることもありました。自分が好きではないことに出会うチャンスも、知らず知らずのうちに減っていたかもしれません。
公教育は、集団生活や集団授業が楽しめる人にはとても向いているでしょう。しかし生活の中の大部分の時間を、他者の決めたもので占領され続けることのデメリットについても、よく考えた方がいいと思います。
学校に行けずに困っている子ども達へ。
どちらを選ぶにしても、よくよく「自分の頭」で考えて決めてほしいです。
子ども達を育てる保護者へ。
「べき論」や「他人の目」は置いておいて、子どもの意思を尊重してあげてほしいです。
子ども達を教える教育関係者へ。
多様な学びの選択肢を公教育に浸透させ、それが当たり前に許容される環境を作ってあげてほしいです。
参考
