はじめに
昨年度、学級担任として働きながら、Twitterとブログで発信活動をしていた。日々の学級実践を公開する牧歌的なアカウントであったが、よく受ける批判にこのようなものがあった。
「そんな事、うちの学級でもやってたよ。何を偉そうに」
「自分でもできる」「既にある」と、罵詈雑言と共に私に石を投げてきた人達は、今どこで何をしているんだろう。できれば、学校の教員ではあってほしくない。
私が言いたいのは、こうした批判は全く的外れであるということだ。見えるものだけを根拠に「程度」を判断しているから、表現の本質が分からないのだと思う。
今回は、消費者と表現者の、たったひとつの違いについて述べたい。
消費者と表現者の定義
まず、二者の定義からいこう。
他者の生み出したコンテンツを使い、自身のパラメータを上げたり、快や不快の感情を得たりしている。
(例:読者、客、利用者、ファン、アンチ)
世界に数多ある要素を使い、また多様な方法を用いて、「経験の結晶化」を行い、他者の役に立ったり、何らかの感情操作を起こしたりできる人のこと。
(例:ブロガー 、絵描き、漫画家、ダンサー)
簡単に説明するとこうなる。
(コンテンツとは、本来デジタルな手段で提供するものを指す言葉だが、今回はアナログな手段も含めた広い意味で扱いたい。)
インターネット及び多様なプラットフォームが普及したため、もともと「消費者」であった人たちも、「表現者」になりやすくなってきたと思う。それでも一生を「消費者」で終える人はいるが。
「経験の結晶化」ができるか否か、それが違いだ。
二者を分かつものは、「経験の結晶化」ができるか否かだ。
「経験の結晶化」とは、私のとある友人の造語である。
私独自の解釈も加えるなら、
「経験の結晶化」とは
自分の経験した/学んだことを、
他者に理解でき、かつ何らかの変化を促す形で保存すること。
とある友人の例で言うと、彼は陸上部の顧問であった。
彼は「経験の結晶化」を行うことができた。
自身が競技をマスターする過程(経験)をノート、ビデオを用いてつぶさに記録し、上達の方法を体系化(結晶化)できたのだ。それを基に生徒(消費者)へ指導を行い、技術の向上を促すことができた。
彼は陸上部顧問という点において、「表現者」だったのだ。
単に「自分が走るのが早い」だけならば、「消費者」に留まっていただろう。
「自分ができる」ことと、
「他者の変容を促す」ことは、違うことなのだ。
はじめにで述べた、「自分でもできる」という批判者が的外れであるという理由はここにある。
また、「既にある」から価値がないという批判については、これはそもそも(著作権を侵害するような丸パクリでもない限り)成立しないと思う。
書店に並ぶ本は、「表現者」によって書かれた、「経験の結晶化」の産物だ。これらは全て完全なるオリジナルだろうか?
学問的なものに触れる書籍ならば、必ず先行研究が存在するはずだ。エンターテイメントだって例外ではない。世の中のすべての漫画は、手塚治虫に影響を受けていると言われるくらいなのだから。
大切なのは、「既にある」要素を排除し、「完全オリジナル」のものを作ることではなく、既にある要素をどう加工したかなのだ。
そしてその加工し、オリジナリティを加えて生み出す過程こそが、「経験の結晶化」なのだ。
本を書く際、著者は自らの人生で得た経験を振り返る。また、たくさんの本に触れ、学ぶ。これを文章に落とし込む際、「経験の結晶化」が行われる。
いくら多読であっても、本を読むだけの人ならば「消費者」なのだ。
「声が大きい消費者」問題
「消費者」「表現者」「経験の結晶化」について述べたが、「声が大きい消費者」の存在も心に留めておいて欲しい。
コミュニティの中心にいたり(ママサークルのリーダー等)SNS等でフォロワーが多かったりする。しかし「消費者」なので、「表現者」のコンテンツを使うことしかできない。
周囲の人間に、コンテンツを使って共感を呼びかける。強い反響を得ることがあるものの、そこに「経験の結晶化」は存在しない。自身では「表現者」のコンテンツを加工できないからだ。
「○○(商品名)っていいよね〜!」が、「消費者」
同じことを言っても、たくさんの人が共感してくれるのが「声の大きい消費者」
「○○と××を比較してノートにまとめてみた」なら「表現者」だ。
「消費者」には、ポジティブな人とネガティブな人がいる。
ポジティブな「消費者」は、「表現者」のコンテンツを評価し、褒め、時にはあたたかい叱咤や励ましをくれる。「表現者」のモチベーションの担い手となる、大切な人たちだ。
しかしネガティブな「消費者」は、「表現者」のコンテンツを自分の自尊心を満たすために使う。
ハッキリ言おう。私はネガティブな「声の大きい消費者」が大嫌いだ。
「声の大きい消費者」は、集めた注目度の度合いで物事の価値を測る。
ネガティブな「声の大きい消費者」は、満たされない自分の自尊心を満たすために、「表現者」や作られたコンテンツを批判することに躍起になる。
過激な論調に注目が集まると悦に浸り、他者への攻撃はさらにエスカレートしていく。
そして、それしかできないのだ。
彼らは多くの場合、深く思考する術を持たない。
書いた文章は貧相で、まとまった文体をなさない。
他者の引用しかできはしない。
感情的で人の批判はよくするが、自尊心が低いため、自分が批判をされると必死になって自己弁護に励む。
「表現者」のコンテンツを原型のままいくつもいくつもセロテープで稚拙に貼り合わせ、自分では「表現者」のつもりでいる。
みっともない人種だと思う。
おわりに 「表現者」の末席より
かつて、「表現者」は一部の限られた人だけが許される立場だった。
インターネット及び多様なプラットフォームが普及した現代、
すべての人が「消費者」から「表現者」になれるようになった。
二者を分かつのは、「経験の結晶化」だ。
難解な学問を平易に解説した本。
言葉にできない気持ちを表現した絵。
人を人生の路地から救う歌。
鳥肌が立つような言葉。
すべて「表現者」の創り出した
「経験の結晶化」による産物だ。
私は表現を愛している。
脳の中にある思考を取り出し、
文章や絵にまとめ、
他者の思考の枠を広げることができた時、
えも言われぬ幸福に包まれるのだ。
だから私は許さない。
自分自身では何も生み出さない癖に、
自分の自尊心を満たすために
「表現者」を、コンテンツを侮辱するお前達を。
すべての「表現者」に敬意を。
参考:
「経験の結晶化」……とある友人=ねこみん氏(Twitterアカウント@nekomin_rika )が考えた単語です。