負の連鎖は続く
蛙の子は蛙 なんてことわざがある。
子どもは結局親に似てくる。
生まれ育った環境に、人は大きく影響を受ける。
世界のかたち、愛情のかたち、生き方のかたち。
数えきれない学習が、子どものうちに行われる。
ここは安心できる世界?不安でいっぱいの世界?
みんなを信頼していいの?近づかない方がいい?
私はどう生きればいい?それとも、生きていてもいい?
人の在り方の方向性がここで定まる。
「負の連鎖」という言葉がある。
関係性は連鎖する。
虐待は連鎖する。
無条件の愛ってケーキみたいなものなんじゃないかな。
甘くてみんなが食べたくって、限りあるもの。
お父さんやお母さんは、もともとケーキを持っていたはず。愛情という名前のケーキは、子どもにあげるためのものだった。
でも、お父さんやお母さんが子どもの頃に、おじいちゃんやおばあちゃんにもう食べられてしまっていたとしたら?
大切なケーキだったのにね。
お腹を空かせたお父さんやお母さんは、子どものケーキを食べるしかない。
そういうわけで、負の連鎖を避けられなかったとしたら。
「被害者」が「加害者」になってしまうのは一瞬で
ぎりぎり紙一重のところに両者はいるんだと思う。
14歳で出稼ぎに来た母の話
自分を虐待した母親の生育歴を聞いたことがある。
私の母は外国人で、14歳の頃、無理やり日本に出稼ぎに来させられた。
年齢を偽りパブやスナックで働いて、母国に送金し続けた。言葉も分からない国で懸命に生きて、17歳で責任を取ってくれない男の子どもを身篭った。それは私の姉だった。
帰ってから、しばらく熱を出して寝込んだ。
祖母から続く負の連鎖がここにもあった。祖母にとって母は「財産」で「愛情を注ぐ存在」ではなかったのだろう。
母もまた「元被害者」で、子の私に対して「加害者」にならざるを得なかったのだ。
異国の地でたった1人。「大人」に「親」になることを強制されて、どれほど心細かったことだろう。
母が私たち兄弟にした仕打ちは許されないことだけれど、母は確かにかわいそうだった。割り切れない私は、ただただ苦しかった。
誰も恨めないなら、矢印は自分に向けるしかない。
そうして連鎖は続く。
誰も恨めない。ケーキは、もうない
私もまた、食べられてしまったケーキのせいで、心にぽっかりと大きな穴があいてしまった。不安でいっぱいの世界で誰も信じられなくて、悲しくて、さみしくて、抱きしめられたかった。
過酷だった実家を脱出して、夢だった大学進学を叶えても、こうした辛さは癒えなかった。私は勉強して、賢くなった。未来への、可能性を手に入れた。しかし周囲と比べて、自分の境遇がおかしいことにも気付いてしまった。賢くなったぶん、みじめさと絶望が強まっていってしまった。無価値な自分が嫌いで嫌いで仕方がなかった。
大学生の頃、1人暮らしをしていたマンションから飛び降りようとしたことがある。
当時の私はただただ混乱していて、心の辛さをどうしたらいいか、全く分からなかった。虐待してくる親はもういなくなって、安全な場所にいるはずなのに、
漠然とした不安といつも戦っていた。
人に会わない日は特に感情の落ち込みが激しかった。大学もアルバイトもない日はベッドの隅で丸まって、自分を抱きしめながら泣いていた。
「私に助けてくれる人なんかいない。今大学に行けなくなったら、奨学金の借金だけが残ってしまう。なんとか卒業したって、何十年も一生懸命働かないといけない。今まで必死で頑張ってきたけど、これからもこの辛いのが続くのかな。でも誰も信じない。信じたって裏切られるだけ。実の家族だってそうだった。助けてくれる人なんかいない。私はずっと1人きり。そして、1人ぼっちで死んでいくんだ……」
今にして思えばこうした思考はうつ病や愛着障害の典型的な症状で、当時の私には心のケアが必要だったけれど、教えてくれる人は勿論いない。全く思い至らなかった。
依存先は主に当時のアルバイト先に向かった。
飲み会の時に1度感情が爆発して、朝までみんなに話を聞いてもらったら、もうダメだった。愛着を起こして、そこから依存が抑えられなくなった。たった1度の優しさにすがって、私は甘えようとした。お金もないのに無理して飲み会に行った。アルバイト先の集まりにしつこくついていっては、寂しさを癒そうとした。(当時そのアルバイト先には好きな人もいたんだけれど、今となっては異性としての好きというよりも、依存先として見ていたんだと思う)アルバイト先には優しい人も多かったが、中には私のこうした行動を嫌がって馬鹿にする人もいた。
「なんでいんの?」「帰れよ」私をいじめた人はAさんという。この人は私の好きな人と仲が良かった。Aさんは精神に異常をきたした私が好きな人を依存先にしていることを察して、Aさんなりに彼を守ろうとしたのかもしれない。
当時の私は全く挙動がおかしかったから、そうした扱いも当然だと言えた。
話を聞いてくれていた優しい人も、内心では迷惑がっていたと思う。それでも、煙たがられてもいじめられても、みんなに寄り掛かろうとすることをやめられなかった。
わかっていたのにな。
私はこの人達とは違う。
みんなには自分の生活があって、帰る場所があるんだ。
この重荷は、誰かに頼っちゃいけない。
人に頼るのはみっともないことだ。どんなにしんどくても、自分でなんとかしないといけない。
受け入れられない経験は、ただただ辛さを増した。悪いのは私だ。自分が未熟なせいで、周りに迷惑をかけている状況が耐えられなくて。楽になりたかった。
そういうわけで死のうと思った。
冬の夜のことだった。クリスマスが近かった。
アルバイト先のみんなでディズニーシーに行った日のことだ。
ちっとも楽しくなんかなかった。特にその日はAさんのいじめが酷くて、みんなでアトラクションに並んでいる時に「かーえーれ!」「かーえーれ!」と私に向かってコールをしてきた。折角テーマパークに行くのだからと、私は背伸びしてお洒落をしていた。ショートパンツに薄い黒のタイツ。それを「何発情してんの?」「(好きな人)を誘ってる」と馬鹿にされるのも、我慢ならなかった。私は言い返すこともできなくて、恥ずかしくて、怒りで、消えてしまいたかった。
アルバイト先のみんなは、「やめなよー」と笑いながら、強くは止めなかった。
つまりはそういうことだったのかもしれないな。
帰宅した私は自宅のベランダから、夜に溶けた景色を見ていた。
住んでいる部屋は7階にあるから、飛び降りれば確実に全てを終わらせられる。価値のない人生を全部。
ベランダから身を乗り出そうとした時に、ふと浮かぶ顔があった。
消えてしまいたいのと同じくらい、誰も傷付けたくなかった
思い出の中の私は、小学1年生。こんこんと炊けるご飯と煮物の匂いを嗅ぎながら、私はおばあちゃんの家でぬいぐるみ遊びをしていた。近所のヨーカドーで買ってもらった、食玩のぬいぐるみだ。動物のシリーズもので、いつもせがんでは困らせていたっけ。「じいちゃんに孫を甘やかすなと怒られる」なんて言いながらも、おばあちゃんはヨーカドーに行くたびにひとつずつ買ってくれた。
中学1年生。不登校の私は保健室の先生に話を聞いてもらっていた。包丁を持って怒鳴り合う父と母の喧嘩や、認知症が進んでしまった祖母のこと。
「不登校の私を責める時は、家庭が少し落ち着く。だから私が悪者にならないと」そんな話をしたと思う。ふと先生の顔を見ると、ぽろぽろと涙をこぼしていた。人のために泣く人を初めて見たので、とてもびっくりしたのを覚えている。別れ際、「またお話聞かせてね」と先生。うまくお礼が言えなかったけど、じんわりとした気持ちに触れた。
高校生。母親が蒸発したので、毎日の料理は私の仕事になる。その日もヨーカドーで買い物をしていたらレジのおばちゃんに声をかけられた。
「あなた毎日来てるわね!ひょっとしてご飯作ってるの?」
はい。と答えると「あらー!若いのにえらいわね!がんばって!」と明るく応援してくれたっけ。
狭い町内だった。今思うと、レジのおばちゃんは全部知っていて声をかけてくれたのかもしれない。
19歳。私は洗濯物の干し方を初めて知った。その頃伯父(父の兄)と暮らしていて、身の回りのことについて細かく口を出されていた。
「お前の家では洗濯物の干し方も教えてもらえなかったの。ハンガーにかける時は右と左をこう合わせるんだよ」
「お前の父ちゃんは子どもを5人も作っておいて、ろくすっぽ保険にも入らなかったのか。呆れるねえ。普通なら自分に何かがあってもいいように手厚くしておくもんだよ」
伯父は口が悪い。口が悪いけれど、言う分ちゃんと面倒を見てくれる人だった。住んでいた家を引き払って祖母の介護を引き受けてくれたし、父の死後は一緒に手続きを進めてくれた。今までほとんど関わりの無かった私の生活費まで出してくれた。
市役所で職員の人に関係を問われた時、伯父はこう言った。「○○はね、人を恨むということを知らないんですよ。母親が家の金全部使ってしまって、父親が癌で死んだでしょ。でもこの子は優しいもんだから、恨むことをしない。こんなことになっても、親を絶対に悪く言わなかった。だから僕は面倒を見ることに決めたんです……」
伯父は独身だったけど、この人の本当の娘になれたら良かったのになと思った。
何度も思ったんだ。
悲しむだろうな。
浮かんだ顔が涙で滲んで見えなくなった。
膝から崩れ落ちた私は、ベランダで丸まりながら、しばらく泣いた。
私はこの優しさのために傷付いて、ぼろぼろになってしまったけれど、この優しさがあったからこそ救われてもいた。
心の中には、愛を受けた記憶が残っていた。私には、私を大切にしてくれた人達がいた。
消えてしまいたいのと同じくらい、誰も傷付けたくなかったのだ。
戦うカエルとニュートンの法則
「負の連鎖」。
かつて被害者だった人が加害者に転じる時。
矢印が他者に向かうと非行に走ってしまうし
矢印が自分に向かうと自傷に走ってしまう。(私がそうだった)
非行と自傷の危うい一線を越えるかどうかは、その人に大切な思い出があるかどうかなのだと思う。
傷付けたい他者や自己がいた時に、自分を愛してくれた人達の顔が浮かぶかどうか。
傷付けられた結果、負の連鎖に向かって真っ直ぐ進んでしまう人が、そうではない世界線を知ることができた時。親とは違う人生を歩む可能性が生まれるのではないか。
そう考えると、私が非行に走らず、また自死を思いとどまった理由も分かる。
私には、優しさや愛情を感じる素地が未熟ながら備わっていたのだ。
幼い頃に受けたあたたかな経験が、時を経ても心の奥底に残っていたのだ。過酷な環境にあって絶望した私は、人を信じることをやめた。さまざまな後遺症はこれを書いている今でも続いている。しかし辛い時に、大切に取ってある思い出が、ほのかに灯る感覚がある。
家を出て10年経ち、ようやくこういうことに気がつくようになった。
「なんかニュートンの法則みたいだね」
一連の話を聞いて、友人が言った。
どういうこと?首を傾げる私。
友人の考えは以下のようなものらしい。
ニュートンの第一法則。
“すべての物体は、外から力が加わらない限り、同じ速さで直線運動をし続ける“
もともとニュートンの法則は力学的なもの。これが人の行動にも言えるのではないか?というのが友人の説。
私が産まれ育った環境はとても過酷なもの。傷付いた心を埋めるために、非行に向かって走る、強い力が働いていた。
そこに優しい人たちの働きかけがあったから、私の進む道が横に逸れて、運命が変わったんじゃないか?と。
希望の持てる考え方で、素直に素敵だなと思った。
私は諦めていたから。生まれ育ちは全てを規定する。過酷な環境で育った私はズタボロになってしまって、価値なんか無いし、もう変わりようがない。辛い気持ちは一生続き、救いようがない。そう考えていたから。
直線運動はそのまま、破滅的な方へと突き進んでいくしかないと思って。
信じたいと思った。
どんなに傷付けられても、抱えるものが大きくても。
それを超えるくらいに多くの、優しい人達の働きかけがあれば。
私が運命を変えるために、頑張り続けることができれば。
良い方向に、きっと進めるんだ。